2015年01月02日

川本真琴と安倍なつみを巡る何とやら−大晦日の「もめ事」の顛末

安倍なつみファンには理不尽に不愉快なテキストなのでスルーを推奨する。私だってこのような文章を物したくはない。しかしあえて物す。

大晦日にtwitterにてある人を「ブロック」(ツイッターにおいて両者の関係を断ち切ること)した。その表面的な顛末はtwilogなどを参照されたい。私がブロックするにいたった状況は、私からすればツイッターのログを参照するだけで十分了解可能であると思うのだが、やはり説明不足と思われるかもしれない。不本意で不愉快であるが、説明を補足することにした。

どう考えても当人同士の諍いに過ぎないことを、しかしあえてこうした場で説明するには多少なりとも積極的な理由はある。起こっている事象は個別具体的なことであっても、そこには一般的に考えるべき問題が含まれているように思うのだ。論点は3点。

  1. 一般的理念に関わる言明と個人的趣味嗜好に関わる言明との混乱について
  2. 「罪」の責任の重さ、意味を巡る「質的」差異について
  3. 自分で「問う」ことと他者に「問う」(その回答を強要する)ことの違いと後者の帯びる暴力性に付いて

この最後の論点、理由により、このブログ記事を書くこと自体が私にはとてつもなく苦痛であり、不愉快であった。10年来抱えてきた傷を再び自らえぐり出す作業を強いられる。

しかし改めて思い起こせば10年だ。ちょうど10年。「あのこと」は一日たりとも忘れたことなど無かったと思っていたが、しかし10周年という「記念日」がすでに過ぎていたことは忘れていた。10年過ぎた今、改めて振り返る、というのは「必然」だったのかもしれぬ。

基本的に2者間のもめ事についての説明なので、第三者で読まれる方はそのつもりで。もっともこのページはほとんどアクセスがない。誰からも読まれないことを踏まえて、なお書き記しておこう、と思った心情は自分でも説明しがたい。ただ10周年ということがそれを後押ししてくれた。

もめ事の相手方のことは「あなた」と書く。別にその人が読むことを期待してのものではない。「ブロック」したのだから当然だ。ただあえてそういう文体で書いてみたくなったのだ。


発端は川本真琴のツイートにある。

川本真琴当該ツイートのキャプチャ

今ね、うちのお母さんに聞いてみた。

「お母さんが町内の祭りで歌ってて(歌を歌う仕事してます)、それを通りがかりの有名な写真家が“素敵だなぁ”と思って撮って、その写真を自分の写真集に入れていたら嫌?」って聞いたよ。


母「嫌じゃない、それは嬉しいわぁ。」

と言ってました。(リンク先は当該ツイート)

このツイートは大橋仁なる「写真家」がタイ人のSWを「無理矢理に」撮影し、それを「芸術」と称して公開したことに対する批判への川本の擁護として書かれたものである。大橋仁が行ったことに関する詳細はgood night,sweetie「東京都写真美術館に送付したメールの内容」を参照されたい。

それに対して私はツイッターにて以下のように批判した。

川本真琴がここまで無茶苦茶な比喩を振りかざしてひたすらに性暴力加害者を擁護する倫理観の欠如した歌い手だったというのはわりと本気で悲しい。CD一枚だけだと思うが持っているんだよな。(リンク先は当該ツイート)

これは一般的な倫理基準に関わることとして、一般性を持った批判として書いたものだ。

これに対して例えば「倫理観の欠如した」という価値判断はおかしい、という批判に対しては、私は一般的・理念的な水準において応答する(黙殺も応答の一つである)。しかし今回そうしたリプは(直接には)来なかった。唯一あったリプは「あなた」の川本真琴の作品に対する共感を私に求めたものだった。

「あなた」は私が川本真琴の作品として知っていると挙げた(これも「あなた」のリプに対する応答として挙げたものだ)「1/2」と「桜」にたいして、「どっちも名曲ですよね」と同意を求めてきた。私は不同意だった。

私の中では両曲とも歌い手の記憶と共にある曲なので、「曲に罪はない」なんてことにはならないです。肥だめに落ちて糞尿まみれになりました

これは私個人の趣味嗜好に関する、個別的な感想を書いたものだ。

私はあえて「 私の中では」と対象を明確にし、「記憶と共にある」と私個人の感性の中で完結した問題であると明示して述べた。それもツイッターでの流儀の一つである「.(ドット)」抜きの、「あなた」個人へのリプとして。要するに私は「あなた」が「あなた」個人の思いを私にぶつけてきたことに対して応答しただけであって、私自身が積極的に川本真琴の作品についての感想を一般的な水準で述べたかったわけではなかったということだ。共感出来ないから共感出来ないといっただけであって、それでおしまいの話だ。

しかし「あなた」はそれで納得しなかったのだろう。私個人の趣味嗜好に関わる私の言明に対して、一般的・倫理的な批判に対する言明と同質・同等の説明を要求してきた。過去の同等の事例があったとして、その件との批判の強度の整合性を問おうとしてきた。これは一般的・倫理的批判に対してはある程度求められても仕方のないものなのだろう(ただし時として私はあまり筋の良いやり方とは思わない。人が何に関心を持って強く批判するかというのは、人がすべてに対して同等の関心を持つことが不可能な以上、個人の趣味嗜好にゆだねられるべき事柄だからだ)。

しかし今回に関しては全くおかしい。最初から個人の趣味嗜好に関わることとして言明されたことに対して、そのような一般性を他者から説明を求められる理由がない。「モーニング娘。は頑張っている」と述べた人に対して「AKBも頑張っているじゃないか」と「一貫性」を求めるようなものだ。「あなた」が私に要求したのはそのようなことだ。「あなた」は「あなた」の個人的な趣味嗜好を私に強いようとしたのだ。

ここからより深刻な問題に入る。二つ目の論点である。「過去の同等の事例」があったとして「あなた」は私に一貫性を問うた。「あなた」が私に問うた過去の事例とは10年前の「安倍なつみ盗作事件」である。

10年前安倍なつみは自らの犯した罪を認め、謝罪した。その後の報道から類推するに被害者に対する損害回復も可能な限りで図ったと思われる(被害者からのその後の告発はない)。罪は、相当に償ったのだ。

「あなた」は私に「川本真琴の問題とその作品への距離」と「安倍なつみの問題とその作品への距離」との差異を私に問うた。しかし「川本真琴の問題」と「安倍なつみの問題」とは、一般的な倫理基準に照らしても、全く別だと私なら判断する。

あえて比喩を用いれば「あなた」が私に求めたことは「片山さつきへの批判」と「ある殺人者への批判」を併置して論ぜよ、ということだ。お前の大切な人に殺人者(服役済み)がいる、お前は政治家を強く批判するが、お前はお前の大切な殺人者の犯した罪の重さとどう折り合いを付けるのか、「あなた」が私に問うたのはそういうことだ。

個別の罪の重さはなるほど後者の方が重かろう。しかしそれは一般的に追求され、断罪されることだ。前者は違う。一般的な断罪などなされない。そうであればこそ、一般的・倫理的次元において言葉による批判をことさらにすることに固有の意味があるのだ。

川本真琴は言葉において、一般的・倫理的な基準において、大橋仁の「蛮行」を擁護しようとした。それに対しては一般的・倫理的な基準に基づく言葉による批判によってしかその「罪」は問えない。

「あなた」の、川本真琴の問題と安倍なつみの罪とを並列に論じることを私に求めたその規範は、私には全く共有出来ない著しく混乱したものであるように思う。

最後の論点に入る。かりに「あなた」が「あなた」のテキストにおいて川本真琴の問題と安倍なつみの罪を並列に論じたのであっても、私は「あなた」の価値基準は全く相容れないと判断するし、「あなた」のテキストに対する評価を大いに下げるだろう。しかし「あなた」は私にこの両者を並列に論じよと要求したのだ。その意味が分かるだろうか。

「あなた」に想像して欲しい。10年経って私が「安倍なつみ盗作事件」という文字をネット空間に改めて書き記すことの苦痛を。「あなた」が私に要求したのはそういうことだ。「あなた」はその自覚があっただろうか。ないわけがない。

10年前安倍なつみは罪を犯した。そして今、川本真琴は(私の価値判断において)間違ったことを言明した。それに対して私が等価なものとして両者に対処しているのかどうかを「あなた」は私に問うた。

しかし「あなた」は私に対して10年前のことを「蒸し返す」のならその前に最低限10年前に私が述べたことを確認すべきだった。したのだろうか。私が当時に書いたテキスト群はそのつもりになればたぐれるはずだ。重層的非決定?。手間だろうが、10年前の総括を私に要求する限りは「あなた」もその程度の手間はかけるべきだ。

想像するに「あなた」は川本真琴を好きなのだろう。だから川本真琴の言動に対する批判は避けられないと判断してもなお、何とか川本真琴の何かしらを救済したいと思っていたのかもしれない。それは「あなた」が「あなた」自身のテキストの中でなすべきことだった。しかし「あなた」はそれをせずに、川本真琴を批判した私に無茶ぶりをしたのだ。

「あなた」は、テキストとして公開されている限り、10年前に私がした作業とほんの少しでも同等のことをやっていないではないか。私は「あなた」のテキストとしてはツイッターとはてなブログしか知らない(それ以上に手繰れる手がかりは私は持っていないと思う)。その限りにおいてそうした痕跡は一切無い。「あなた」は自分では自分に対しては問おうともせずに一方的に私に問うたのだ。「あなた」は「あなた」自身のなすべきことをのがれて、その苦悩を私に押しつけようとしたのだ。

posted by はたの at 11:24 | 日記

2013年08月05日

遺骨を見るということ

先日父が他界。無宗教ゆえ、宗教儀礼的なことは一切なし、葬儀会社には読経その他すべて断り、火葬の手配のみを頼んだ。段取り、予算の打ち合わせを終えた後に電話が掛かってきて火葬予定日は友引だがかまわないか、と確認の電話があった。何となく可笑しかった。向こうも仕事、忘れた確認は馬鹿馬鹿しくともしなければならないのだ。

頼んだ葬儀会社は、その後は淡々と、しかし誠実かつ迅速に仕事をしてくれた。遺骨位牌を受け取らないことも含めて、ごくごく自然に事を進めてくれた。今ではそれほど珍しい依頼でもないのだろう。

私は遺骨の確認もせずに帰るつもりだったのだが、母が遺骨の確認だけはすると言った。私はあまり見たくはなかったが、仕方なくつきあった。遺骨は想像していたのとは違って(私はそういう場に出るのは初めてなので全く無知だったのだ)、おおかた原形をとどめていた。理科室などにある人体模型のようだった。その骨一つ一つを医学的な名称をそえて説明してくれた。案外に即物的なものだった。

遺骨を確認し、その骨を拾う。それで死者の魂が救済されるというようなのはアニミズムであり、観念論的だと素朴唯物論的立場からは感じられる。私も全くそのように考えていた。しかし遺骨を直に見て、その一つ一つのパーツを確認する作業は、まさに父がもはや生きてはいないこと、まさしく骨になってしまったこと、その当たり前の事実をまさに即物的に確認する作業に他ならなかった。

父は死ぬ一ヶ月前にはせん妄状態になったりして、悪しき妄想にとりつかれ、形相まで変わってしまうことがたびたびあった。しかし息を引き取る二日前ぐらいからほぼ正気に戻り、苦しそうに呼吸しながらも最期は眠るように逝った。その父の最期の顔が父に対する最後の記憶として残る限り、「永眠」という言葉で表されるような、死と眠りとの境界が曖昧なものとして私の心に残ったかもしれない。しかし骨になった姿を見せられることで、そうした曖昧な記憶はかき消された。

「遺骨など見ても仕方がない」と私は思っていたが、それは実は「遺骨など見たくはない」という思いであった。そしてその思いは素朴唯物論的立場に由来するものではなくて、まさに遺骨に対する畏れに由来するものであったように思う。遺骨に対するアニミズムに染まっていたのは私の方だった。

思えば宗教というのも良く出来たものだ。宗教的儀礼にかこつけて死の現実をまざまざと見せつける一方で、極楽というユートピアを用意してその動揺を抑える。父は宗教を一切信じなかったし、私も今後も宗教を信じることはないだろう。しかしもし父が宗教を信じていたら、死ぬ前の父の心はもう少し平穏なものだったのだろうか、などとふと考える。

posted by はたの at 00:34 | Comment(0) | 日記

2011年03月22日

新しいブログ作ったょ

作っただけで使うかどうかは不明

とりあえずいろいろテスト

posted by はたの at 17:16 | Comment(0) | 日記