2016年10月31日

映画「ある戦争」

デンマーク映画。アフガニスタンにてタリバンの襲撃から民間人を守るための平和維持活動に従軍する部隊長の物語。

映画「ある戦争」が日本社会にもたらしたもの

この映画が暴き出したものは、この映画を批評する日本の批評家たちのイデオロギーである。

あらすじ

部隊長クラウスは巡視活動中に地雷で部下を失う。部隊メンバーは激しく動揺する。クラウスは巡視に自らも参加する事にする。クラウスの子どもたちは父親が長期不在の影響で精神的に不安定になっており、妻も疲弊している。公私ともに苦しい状況。

アフガニスタンの民間人一家がタリバンの襲撃を怖れて助けを求めに来る。陣営に止めるわけにはいかない、翌日助けに行くからとりあえず帰れ、と無理矢理追い返してしまう。ところがその夜にタリバンの襲撃により一家は惨殺される。いたいけな子どもの死体。クラウスは平静を失う。そしてそのときタリバンからの激しい攻撃に見舞われる。戦闘の中で部下が瀕死の重傷を負う。助けるためには今この攻撃を止めるしかない。それには空爆を要請する事だ。しかし空爆を要請するためには敵の位置を明確に確認しなければならないルールがある。それでは間に合わない。クラウスは敵の位置を確認しないままに空爆要請を行う。結果的にタリバンからの攻撃は治まり、部下の命は救われた。本国の病院で療養する部下から感謝のメッセージが届き、沸き立つ部隊。クラウスは英雄となった。

ところが思いがけず本国から召還命令が届く。先の空爆で民間人に被害が出たという。その責任がクラウスに被せられる事になったのだ。理不尽に感じるクラウスだが、命令には逆らえず帰国し、裁きを受ける事になる。その過程で自らが要請した空爆により子どもを含む民間人が11人殺害された事、その詳細を知る事になる。自分の下した判断がもたらした被害、それに慄然とするクラウス。罪を受け入れようと考えるが、長く夫を戦場に送ってきた妻は猛反対する。「過去の事よりもこれからの事を考えて。死んでしまった子どもたちのことよりも今後も生きていく子どもたちのことを考えて」。

裁判の焦点はクラウスが敵の存在を確認して空爆要請を行っていたのかどうかであった。弁護士は敵の存在を確認したと虚偽の証言をしろとアドバイスする。そうすれば無罪に出来る、と。クラウスはその指示通りに証言をするが、映像や周囲のさまざまな証言をもとに法務官(検察役)は厳しくクラウスを追求する。クラウスは追い詰められていく。だが終盤になって弁護側に有利な証言を行う者が現れる。クラウスの部下だった男だ。彼は自分が敵を確認し、それをクラウスに伝えたと明言する。クラウスを助けようと嘘の証言を行ったのだ。その証言が決め手となり、クラウスは無罪となる。

ありがちな、そして現実に散見されるレビュー

既視感のある展開のように思える。「ハドソン川の奇跡」と重ね合わせたレビューも散見される。

ある事件に対処する事によって英雄となったが、思いもかけない追及がなされ、誇りが傷つけられる。しかし裁判(調査)の過程でかけられた嫌疑は晴れ、名誉が回復される。

「現場」で当事者が真摯に懸命に行った処置が外部の人間から断罪される理不尽、それに対して自らの誇りを取り戻す戦いを描いた作品である、と。

この作品は部隊長クラウスの目線で描かれており、観客はクラウスに同情的に展開を見守ることになる。そしてその限りにおいて、この作品は先のレビューのようなものを確かに描いている。

しかしそれがこの映画に仕掛けられた罠だ。「ハドソン川の奇跡」のような不当に誤解された英雄の物語ではない、クラウスは子どもを含む民間人殺害に確かに責任を負っているのだ。そして彼の疑いを晴らすのは真実の力などではない、嘘の証言が彼を救うのだ。彼の英雄譚は欺瞞にまみれたものなのである。

従ってこの映画のクライマックスは「ハドソン川の奇跡」などのようにカタルシスに満ちたものにはならない。逆になんとも言えない嫌な空気に満ちたものになる。クラウス目線で彼の無罪判決を願っていた観客は裏切られる。

無罪となったクラウスは自宅で眠る息子の足を見る。彼が見捨て、惨殺された子どもの足と重なる、さらには彼の判断による空爆で殺された子どもの姿も。

そこで次のような視点をもったレビューがなされることになる。この映画は善悪の境界など不確かなものであるということを描いているのだ、正義の相対性がテーマとなった作品なのだ。

本作の最大のテーマは、「誰が善で、誰が悪であるのかは、誰にも分からない」ということだ。…単純な道徳は成り立たない。…戦争を題材に、人間の善悪とは極めて相対的なものであるということを描いているのだ(佐々木俊尚・公式パンフレットより)

この映画で問われているのは、しかし、善悪の境界、倫理の相対性などではない。クラウスに同調し続けた観客の判断が、倫理が問われるのだ。(仲間)内の論理(というより感情)に流されて、その外部で起こっていること、悲劇をなかったことにしてしまってクラウスの無罪を言祝ぎ、あるいは善悪の相対性という概念でもって思考を停止してしまうわれわれの感性が問われているのだ。その問いかけはしかしあまりに鋭利なために、わたしたちはさらにそれを黙殺してしまう。それがこの映画になされた数多のレビューが惨憺たるものになる理由である。

「現場」を見ない外部の者が気楽に断罪している?クラウスやそれに同情する者こそ、空爆で殺された人たちの現実を見ていないではないか。ここで起こっているのは複数の「現場」の衝突であって、その中で「正義」とはいかなるものであるかが問われているのだ。「ハドソン川の奇跡」のような「現場」対「外部」の対立などではない。

「現場」の判断が思いもかけず断罪されてしまう理不尽・リスクを描いている?クラウスは無罪になる。その場で嘘をついて誤爆を引き起こし、民間人を殺害してしまっても、最終的には無罪になる、そういう映画なのだ。リスクが高いことを描いているのではなく、逆にリスクの低さが描かれている。

善悪の相対性がテーマになっている?前半はそうも言えるだろう。しかし後半、裁判シーンで描かれているものは嘘の証言によって判決がねじ曲げられていく顛末だ。曲がりなりにも近代国家においてそのようなことが「善悪の相対性」などという題目で免罪化されうるだろうか?そこまで「相対性」の内に入れるならば、それはアナーキズムでしかない。そういう立場があり得るとしても、この映画も、それを好意的に評する論者たちも、そのような立場を本当に背負っているのだろうか?

「ある戦争」がえぐり出すもの

この映画がえぐり出したもの、それはデンマークというおそらく自認においても、そして日本社会から見ても、典型的・規範的な近代民主主義国家が持つ、戦争を通じて浮かび上がる赤裸々な(国家)意志の姿だ。ピーター・バラカンの評としてパンフレットに掲げられた文句「民主主義の根幹に迫る淡々とした力作」こそがこの映画の本質に迫っている。そしてそこで描き出されたものは恐ろしく醜悪な剥き出しの国家意志の姿である。それが監督の制作意図に沿うものであるのかどうかは分からない。ただ戦争を通じて浮かび上がるリアルな諸状況を描き出すことだけが目的であったのかも知れない。しかしこの映画は、あるいはそれゆえにこそ、リアルな国家意志の姿を見せてしまうのだ。

今一度この映画の展開を振り返ろう。

映画の前半、戦場という「現場」が舞台。その「現場」においてクラウスは瀕死の部下の救出を最優先させ、それが(戦時)法に反する事を知りながら断固として空爆を要請する。それが民間人殺害という結果を招く。

ここで問われる善悪に関する問とは「クラウスは悪い奴なのか」である。目の前で死に瀕した仲間の命を最優先させること、そのために他の命を危機にさらすこと、それは倫理的に悪なのか?この問はいわゆる「トロッコ問題」とされるものに重なる。そして多くの批評家はこのステージでこの映画の善悪に関する問が提示し終わったものとみなして、善悪の相対性が描かれた映画だと評するのだ。まだ映画の半分でしかないのに。なぜか?この段階での問こそ、わたしたちが問うて欲しいと待ち構えている問だからだ。わたしたちは「トロッコ問題」が大好きなのだ。ある状況においては人の命を見捨てることもある、それは倫理的に救済されるべきものだ、という「答え」がわたしたちにとって心地よいのだ。人の命を見捨てる決断をする苦悩、そういう悲劇に酔いながら、命の選別をする己を正当化する快感が大好きなのだ。

しかしこの映画は後半の法廷の場においてその問を変える。「クラウスの行為は罪を問われるべきなのか」。これはクラウスに関する人間的・倫理的な判断とは独立したものである。クラウスの決断が、その現場において大いに共感・同情すべきものであったとしてもなお、その責任が問われるべきことはありうる。

クラウスは一つの現場においてある決断を行った。その結果別の現場で悲劇を引き起こした。ここで起こっていることは複数の「現場」の衝突であり、その価値を調停する存在として法が登場してくるのだ。法は個別の事情を汲み取ろうとはするが、しかし根本的にはその上位にあるべきものだ。それが近代国家の「法治主義」というものだ。

クラウスは罪を受け入れようとする。子どもを含む民間人11人の命を奪ったのは自分だ、その責任は負わなければならない。これがクラウス目線で描かれたこの映画の判断だ。しかしその判断は覆されていく。

罪を受け入れようとした夫を妻は激しくなじる。「過去の事よりもこれからの事を考えて。死んでしまった子どもたちのことよりも今後も生きていく子どもたちのことを考えて」。いままで家族のことを十分にフォローできなかったクラウスは妻の願いに逆らえない。

クラウスについた弁護士も無罪を求めて争えるという。「倫理的な善悪など私には関心がない。私のなすべきことは依頼人であるあなたを無罪にすることだ」。そう前置きしてクラウスに戦術を授ける。「空爆要請をする際、敵の存在を確認したと嘘の主張をしろ、そうすれば無罪に出来る」。いかにも優秀な弁護士のようだ。クラウスに同情的な観客にとって非常に頼もしい弁護士である。そして弁護士という職業倫理に照らして、その限りにおいて、彼の言い分は正当なものである。

この法廷では法務官が検察役を務める。そしてこの法務官は女性である。ついでに裁判長も女性である。このジェンダーに意図はあるのか?制作者の意図は分からないが、しかしある種の観客にとって確かに意味を持ったようだ。「現場」で闘い、苦悩する「男」と机上で正論を述べて裁くだけの「女」という対比として。

クラウスそしてクラウスに同情的な観客の願いに反して法務官は沈着で論理的にクラウスを追求していく。

軍隊にはその現場において一定の裁量権が認められるべきことは当然である。しかし法は守らなければならない。それが崩れてしまうと軍が活動する土台が失われてしまい、国際秩序そのものが危機に瀕することになる。

クラウスが部下を守ろうとして下した判断である事は確かであり、その意図は十分に共感するに値する。粗暴に民間人をなぶり殺したような犯罪とは明確に区別する必要がある。しかし敵の存在を確認しなければ空爆要請をしてはならないという法は明確なものであり、守られなければならなかった。

映像に残っているクラウスの発言はこの法を一貫して軽んじている。敵の確認など最初からしようともせずにただ空爆要請をせかした。確認なしに空爆要請は出来ないと部下が忠告したにもかかわらず、そんなものは無視してしまえと発言している。そしてついには業を煮やして「自分が確認したから空爆を行えと言え」と部下に命ずるのだ。

クラウスはその前に地雷で部下を死なせたことで己の責任を背負い込み、部隊長としてなすべき正確な優先順位付けが出来なくなっていたのではないのか?それは同情すべきことではある。しかしその過失から引き起こされた結果は重大であり、その責は問われなければならない。

法務官は一貫してクラウスを倫理的に断罪することはしない。むしろ同情的でさえある。しかしそれでも法は(その法は戦時法であり、正にクラウスが直面したような事態を想定したものとして作られたもののはずだ)守られなければならず、ぞれを破った結果引き起こされた事態についての責任を追求しているのだ。

弁護側も、当初の方針通り、敵の確認を行ったと反論することで一貫させる。「部下の命がかかっていた緊急性」のようなものは論点にならない。ただ手続きとしてクラウスの空爆要請は正当なものであったとその一点で無罪を主張する。だがそれを裏付ける証言は出ず、それを裏切る証言・映像・その他の状況証拠が法務官から提示され、クラウスは窮地に立たされる。

裁判の帰趨は誰も目にも明らかだ。おそらくクラウス目線の観客からしても。ところがここで大どんでん返しが起こる。

審理が相当に進行したある日、突然あるクラウスの部下が証言台に立つ。「私が敵を確認しました」。「私が確認して、部隊長に空爆要請を行うようお願いしたのです」。

あまりにも唐突な証言。なぜ今になって?不自然。残されていた映像とも矛盾する。全く信頼性の欠いた証言である事は明らかだ。法務官も、半ばあきれ顔で追求する。それでもその部下は平然と、その矛盾に満ちた証言を反復する。「私が確認したのだ」。ひたすらその一点。

そうして迎えた判決。「無罪」。3人の裁判官全員一致の判決。あの部下の証言が決め手となった。クラウスは正当な手続きにより空爆要請を行った。その結果は悲劇だが、クラウスに責任はない。

もしこの映画が「ハドソン川の奇跡」と同種のテーマの映画だとしたら、この映画は「ハドソン川の奇跡」とは比ぶべくもない駄作である。あまりにも主人公であるクラウスにとってご都合主義的な展開に過ぎる。隠されていた真実、証拠が明るみに出て無罪になったのではない、あからさまで唐突な嘘が決め手で無罪になったのだ。黒いものを無理矢理白くした、そんな判決である。

この判決は「正義の相対性」などといったもので煙に巻くことは出来ない。するとすればそれは法治主義の否定である。近代国家の根幹、延いてはまさに「民主主義の根幹」に関わる話なのだ。

それではこの判決は何かしらあり得ない、あってはならない何かしらの錯誤に基づくものであったのか。そうではない。優秀なる弁護士が予見していたではないか。嘘を突き通せ、さすれば無罪になる、と。

わたし(たち)は弁護士のこの宣言は弁護士という職業倫理においてあり得べきもの、正当性を認められるべきものと納得していた。しかしそれだけではなかったのだ。弁護士の見積もりはこの法廷、そしてこの国(デンマーク)の司法制度全体のなかに確かにその根拠を持っていたのだ。「クラウスは無罪」という結末はすでに決まっていた。彼は無罪になるべくして無罪になったのであって、裁判はそれを確認するセレモニーに過ぎなかったのではないのか。かくして法治主義の原則を歪めてクラウスは無罪放免となった。

なぜクラウスは無罪でなければならなかったのか?ここにはデンマークという(キリスト教圏の、一般的正義を掲げてきたはずの)国家の宿痾が現れている。

デンマークにとってクラウスは同胞を救った英雄なのだ。そんな英雄である軍人を(デンマーク人の)誰が裁きたいと思うだろうか?一方クラウスの判断で被害を受けたのは(有色人種である)アフガニスタン人だ。そんな現地人が何人間違って殺されたとしても、その死を真摯に受け止める想像力を(デンマーク人とそれに目線を重ねた)われわれは持っていない。

人種主義的な感性が一般的正義を掲げた法の運用をねじ曲げてしまった。法治主義、そして命の価値の平等、そういう近代人権概念の根幹がその実単なるフィクションに過ぎないということがこの裁判の顛末に表象されているのだ。

この映画で描かれているのは戦争という非常事態において正義が揺らぐ様である。しかし正義の価値そのものは何ら問い返されていない。そうではなくて、それを公式に認めてしまえば近代社会の根幹が覆されてしまうごときおぞましき国家の「本音」が正義をねじ曲げてしまったのだ。

罪を受け入れようとしたクラウスに突っかかる妻の言葉を思い出そう。

「死んでしまった(アフガニスタン人の)子どもたちのことよりも今後も生きていく(私たちの)子どもたちのことを考えて!」

そして自衛隊海外派兵にまつわるあれこれ

この映画は自衛隊の海外派兵に対するメッセージ性を帯びうるものと右も左も解釈可能であるし、現にされている。そしてその際の解釈は右も左も同じ線上に立つ。自衛隊を海外に出す事はこのようなリスクを背負う事になるのだ、その覚悟はあるか、と。自衛隊員が派兵先で民間人殺害を引き起こしたとしたら、それは由々しきことである。

「左」はだから派兵には慎重になれと、「右」はだから腹をくくれ、あるいは軍の現場での裁量をもっと尊重する枠組みが必要だという主張に繋げる。

自衛隊員が仲間を守るために、地元民の生命に関わる事態を引き起こしてしまうということも、これからは十分にあり得る。そのときに、わたしたちの日本社会は自衛隊員の行為を断罪するのだろうか(佐々木俊尚・公式パンフレットより)

しかしこの映画から敷衍される結論はもっとずっと「楽観的」であり、かつ恐ろしいものだ。自衛隊員が派兵先で民間人殺害を引き起こしたとしたら。大丈夫、問題ない。裁くのは日本の司法だ、日本軍人を日本国が厳しく断罪する必要などない、適当に理由を付けて無罪にしてしまってよいのだ。(国権の発動たる)戦争とはそういうものなのだ。

posted by はたの at 13:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | ドラマ・映画・小説